つれづれ色々綴るブログ

こちらのblogではエッセイを書いています。楽しんで頂けたら幸いです♪

しぼんだバランスボールと蘇る思い出


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母親の介護を始める少し前ぐらいから水泳にハマっていた時期がある。
初めは水の中を歩いて痩せるのが目的で通い始めた。歩くのはプールの広さ3分の1程度の端っこのレーン。他は泳ぎ自慢の人達が水しぶきをあげているレーンだ。
歩き利用者の多くは女性で年齢層も高め。隣同士で世間話に花を咲かせながら、25メートルを行ったり来たりしている人もいる。最初は周りの見よう見まねでやった気になっていたが、次第にもの足りなさを感じ始めた。

そんな折り、ふと隣のガッツり泳ぐ人のレーンが目に入った。まるで水の中を滑るように、且つ私が歩く何倍ものスピードで、あっという間に向こう側に着くと、ターンの華々しい水しぶきをあげている。
それを見た瞬間、小学生のころ近所に市民プールができたこともあり、夏休みは学校のプールの他に、市民プールにも泳ぎに行っていたくらいの水泳好きだったという記憶が瞬く間にフラッシュバックした。
「泳ぎたい!」

しかしブランクは20年以上。しかもその頃は仕事が終わる時間が不規則なため、水泳教室に通うのは無理。
ならばとインターネットで動画を探し、泳ぎの基礎に始まり、息継ぎの仕方、バタ足の動き、抵抗を少くして泳ぐための姿勢、クロールの手のかきかた、回転するターンのしかた、平泳ぎの手足の動き、背泳ぎ、果てはバタフライ(少ししか泳げるようにはならかったけど)までを全部学んだ。
そして週に3日プールに通い、ひたすら動画で見たスムースで流れるようなフォームを脳内再生しながら練習に励んだ。
回転するターンをマスターした時は嬉しくて一度に何キロも泳いだことを覚えている。

不思議なもので、泳ぎに自信が着くと水着も派手になっていくのが、公営プールの相場のようだ。私自身もご多分にもれず、初めはスクール水着に毛が生えたような、紺地に申し訳程度「arena」というブランドロゴが胸元に入っただけの地味なものだったが、次第むに地色は紺でも派手な花柄や幾何学模様のデザインの物を選ぶようになり、更にキャップやゴーグルも水着に合わせ、トータルコーディネートを楽しむようになった。

投資したのは着用するものばかりではなかった。水泳の場合「力」は余り関係ないが、体幹を鍛えることによって推進力が上がるというのを見て、バランスボールを購入し、体幹レーニングにも取り組んだ。我ながらアスリート並の入れ込みようだったと思う。
しかしその後母の介護と仕事をクビになったのとで、プール通いができなくなったのと同時にバランスボールは納戸の奥で長いこと眠ったままだった。

今は筋トレにハマっているが、読んでる本に、バランスボールは老化防止に役立つと言うのを読んで、再び存在を思い出した。「ボールに座るだけでいいならもう一度やってみるか!」
引っ張り出しては見たものの、経年劣化なのか、単に空気が抜けたのか何となく弾力というか張りが足りない。空気を入れようにも空気入れをどこに仕舞ったのかが思い出せない…浮き輪のように口でいけるかと思いきや、間違って逆に空気を抜いてしまった。せっかく約20年振りぐらいに思い出されたのに再び納戸の奥へ。そのうち捨てられる運命だろう。

一方思い出の方はバランスボールのようにしぼんだり、忘れてしまったようでいて実は鮮やかにしっかり覚えているものだ。特に昔の思い出ほどその傾向にある。
こうしてみると私の凝り性は今に始まったことではないようだ。

安心感の味


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ここ数日コロナワクチンの副反応で何年かぶりに寝込んだ。
安静にして横になっていたというだけなら最近だと骨折の時になる。しかしそれでももう4年も前のことになる。

体調を崩して具合が悪かった時で思い出すのは、私の場合決まって小学校低学年の頃だ。そのころ私は「自家中毒」という症状で度々具合を悪くしていた。
病気の説明をすると長くなるので詳細は省くが、要はストレスに弱い繊細な子供だった。
そんな時母はどんなに忙しくても私の世話をして、眠るまで傍にいてくれた。それだけで安心したものだった。
そしてもう1つの思い出は手作りの「パンプディング」だ。牛乳と卵と砂糖だけで蒸した素朴な味だったけど大好きで、具合が悪くてもこれだけは食べられることもあり、いつもねだって作ってもらった。いつも同じどんぶり?スープカップ?で作って貰っていたので、器の絵柄もおぼろげに覚えている。

やがて高学年になると、その症状はぴたり出なくなり、時は流れ30代後半になると、今度は私が母に対して、してもらったようなことをする番になった。その後は父親にも。
子供の頃の、あの心細さを埋めるくらい同じ事ができていたのだろうか…
最近はずっと自分がケアをする立場だったせいか、片足が使えない以外は元気だった骨折の時は、看護師さんの気遣いにすら恐れ多く、案外気丈だった。
でも今回は久々の発熱(いつ以来だ?)と体の具合の悪さで寝込み、母のパンプディングの味を思い出した。

が、実際は全く作る気にもなれず、毎日お粥、玉子、オートミールにバナナという、味気ないワンパターンメニューで乗り切った。
でも仮に作ったとしても、あの頃と同じ美味しさは感じなかっただろう。なぜならあの美味しさは、母親の愛情に包まれた安心感に他ならないからだ。

いま、まさにコロナで孤独な入院、または自宅療養生活をしている人の不安はいかばかりだろうと思う。ワクチン接種で重症化はしなくなるとはいえ、覚悟が必要だ。

2位でもいいのが自己肯定感

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ここ最近私は「禅語」にハマっている。
みうらじゅんさんの「最後の講義」という番組を見て、仏教に興味を持ったのがきっかけ。以後、みうらさんの名著「マイ仏教」を経て、玄侑宗久さんの本や、養老孟司先生の本を読み漁った。ちょうど7月の「即席読書家」期の話しだ。また、YouTubeではお坊さんがお悩みに一問一答している動画や、般若心経等のお経を音楽アレンジした配信をしている方もいらっしゃる。「禅」や「仏教」がかなり身近なものになってきていることもハマる要因の一つになったと言えるだろう。

玄侑宗久さんはお坊さんなので当然だが、養老先生は解剖学者なのに、考え方に仏教的な部分を多く感じる。例えば「自分は存在しない」は禅の「色即是空 」に通じる。養老先生の言葉をとても短絡的に訳すると、自分というものは単体で存在してるのではなく、様々な条件のもとにたまたま生じているだけ。だから自分探しは無意味だよということだ。(もちろん色即是空についてはもっと深い意味が有ります。)だってこの世は全て諸行無常。毎日、いや一分一秒後でさえ全く同じ状態なものは1つも無いのだから。

そんな禅にかぶれ始めた(信仰心は無い)ある日、YouTubeの一問一答の動画を見て、悟りを開いた?いやいや、長年考え続けていた謎が解けた瞬間があった。
それは自己肯定感の定義だ。私は自慢じゃないが自己肯定感が低い人間だと自負している。しかし自己受容だけはできている。ダメな自分でも仕方ない、という諦めのような境地だ。だけど今の世の中は「自己肯定感をあげよう!」的な風潮を少なからず感じる。現にそのような著書や、コンテンツを多く見かける。「あげなきゃダメなの?じゃあ自己肯定感が高いってどういう状態?」と常に疑問を持ち続けてきた。その答えが見つかったのだ。

それは、つまるところ「どっちでもいい」だった。
一昔前に、ある女性議員が事業仕分けで言い放った「2位じゃダメなんでしょうか?」という言葉が物議を醸したが、まさにアレ。
1位でも2位でも3位でもいいよ。この「こだわりの無い境地」が自己肯定感が高い状態とそのお坊さんは語る。
これはまさに禅語でいうところの、「雨奇晴好」(うきせいこう)だ!「雨もまたよし、晴れればまたよし」どんな状況もあるがままの状態をちゃんと見れば悪いことばかりではない。これこそが究極のプラス思考ではないだろうか?

私は知らぬ間に自分で人生のハードルを高くしていたのだなと気づき、自然のまま、あるがままに身を任せて生きようと、心底思えた瞬間だった。
実はいま、「第二次即席読書家」期が到来しており、禅語の本と般若心経の解説本を同時進行で読んでいる。また新たな気づきが得られそうな気がしているが、禅の教えでは、それすら捨てなければならないことであろう。

逆さま攻略法


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近ごろ連休が少ないため、生活が堕落している。やりたい事や、やるべき事が1日では終わらないのだ。片付けても次の休みまでにまた散らかり、草を刈ればまた伸びて、同じことの繰り返しになっているという状態。やってもやっても前に進まないのでやる気も続かない。

だからといって、やるべき事をだけをして過ごせば、休日が消耗して終わる。
どうしても、やりたいことから手を付けてしまうのが人間の性だ。
ではどうすれば充実感を得ながらやるべき事を片付けられるのか?

まずは逆算してみた。例えばゴミが貯まってしまう問題だ。そもそも出すのを忘れていたり、収集時間ギリギリになってしまうと諦めて貯めてしまっていた。

では当日忘れないために前日に出せばいいのでは?しかし前日の夕方に筋トレがあるとクタクタでできない。
ならば当日の朝にサッとすぐに捨てられる状態にしておく。そのためには当日の朝にゴミを全て集めるのではなく、毎日少しずつゴミ袋に捨てておく。
もうひとつ問題がある。それはゴミ袋を置いてある物置までに、草が生い茂りそこを乗り越えて捨てに行かなければならず心が折れることだ。
と、なると今度は草取りの問題になってくる。

草取りが進まないのは前述した通り、ちょっと刈っても数日後にはまた伸びるの繰り返し。休日が雨天だったりすると更に荒れていく。ならば休日ではなく仕事の後に少しずつ!これも筋トレの時間と被るのでなかなか難しい。
とりあえず一昨日の休みに物置小屋までのルートは何とか確保するべく頑張った。あとは筋トレが休みの日で、尚且つ雨が降っていない日にちょこちょこやるとする。
連休になったら片方の日の1時間は必ず草刈りに充てるということにして、忘れないためにも予定表を作ってみることにした。
まとめると、

ゴミ捨て忘れる問題は
①毎日少しずつゴミ袋に捨てに行く
②ゴミ捨てのスケジュールをスマホに入れて通知させる

草刈り進まない問題は
①スケジュールを作って、筋トレをしない日で雨天以外の日にちょこちょこと、連休の片方の日に1時間を割り当てる

で、とりあえずでやってみる。ダメだったらまた考える。
ポイントは何が障害になって不可能にしているのかを洗いだすことだ。そして逆算して、それを可能にするために一つ一つ解いていくのがミソだ。

これを読んだ方の中には、なんて時間の無駄なことを!そんなの人を雇って頼めばいいじゃないか!時間単価低っ!て思う方もいるでしょうが、私にはそんなお金は有りません!あしからず。
それにこういう風に攻略法を考えるのも実は楽しくさえ感じ始めているのだ。

ノスタルジックな変態ドラマ

 

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(C)2019「おいしい給食」製作委員会

学校給食という言葉を聞くと、私はいつもある献立てを真っ先に思い出す。

それは「鯨肉のオーロラ和え」だ。
月に一度は必ず登場する人気メニューで、レシピの紹介記事が献立表にのるくらいだった。なにぶん小学生だったので、詳細なレシピについては覚えていないが、おそらく竜田揚げにした鯨肉をトマトソース、またはケチャップで和えたものだと思われる。なんと贅沢な!と思われるかもだが、私が子供の頃の鯨肉は、今ほど高級品ではなかったのだ。
そんな事を思い出させてくれたのは、
昨日BSトゥエルビで放送された「美味しい給食」というドラマの存在だ。

ストーリーは、1980年代の中学校を舞台に「給食マニア」の男性教師とある男子生徒の給食にまつわる闘いを描いた学園グルメコメディだ。(今放送されてるのは昨年の再放送)
ここで言う戦いとは、「どちらがより美味しく給食を食べるか」の戦いである(笑)
市原隼人演じる教師の甘利田は、生徒以上に給食を楽しみにしているなどと知れたら威厳が失墜するため、心の奥底でで給食を愛するだけ。
いっぽう男子生徒の神野ゴウは給食に愛がある故に変革を求める13歳。

第1話では私の好物だったオーロラ和えの元メニュー、「鯨の竜田揚げ」が登場。
ひと口ひと口を心底堪能する甘利田に対し、ゴウはタルタルソースを用意し、「竜田揚げドック」にカスタマイズして美味しそうにほおばる。甘利田に向けられたドヤ顔。見せつけられた甘利田は敗北感に打ちのめされる。といった感じだ。

言わば、保守派か革新派かというところだろうか(笑)
また「どんなおかずにでも必ず牛乳が付く」とか、牛乳のフタを取るときのよくある失敗で、上紙だけが取れてしまい、薄く残ってしまうパターンなど給食あるあるも出てくる。

甘利田が給食を食べるシーンでは、孤独のグルメよろしく、いや、それ以上に給食を堪能する心の声が、全身から溢れかえっている。その姿は「マニア」というより変態。あれだけ変態になりきれる市原隼人という役者を私は見直した。

恐らく制作者は同年代なのだろう。
10月からはシーズン2が放送される。
どんな懐かしメニューが登場するのか、また2人の対決の行方は?
ノスタルジーと爆笑に思う存分浸れる、週一の楽しみになりそうだ。

秋の楽しみ


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ここ数日、気温は高いが空気が秋のそれに変わったことを肌で感じるようになった。
今日から9月だからなのか、今朝は特に涼しい。先日見たTV番組でも「秋の味覚といえば?」のランキングを紹介してたり、某夢グループ(笑)の冷風機のCMが、翻訳機に変わっていたり、世の中も少しずつ衣替えしているのがわかる。

私にとって秋は、1年の中で最も好きな季節。
暑かったり寒かったりすると冷暖房費がかかるし、第一に健康が損なわれる心配がある。湿度が高いと、くせっ毛人は髪の毛の対応に困る。花粉症は集中力を奪い、医療費がかかる。秋にはそういう面倒が無いので、コスパの面でもとても良い季節なのである。以前は「おしゃれの秋」という楽しみ方もあったのだが、あらたまった外出をそもそもしなくなったし、仕事場には(とんでもなく暑いけど)制服があるので、今は服装への関心が無くなった。

1番楽しみなのが紅葉だ。これは私の中で日本に生まれて良かった!と思うランキングのかなり上位に位置する。
田舎に住んでいると、わざわざ遠出をしなくても、美しい紅葉にわりと出会える。
しかし、わざわざ毎年行ってみたい!と思うところが1箇所だけある。それは秋保の天守閣自然公園だ。昼間もとても美しい庭園だが、夜のライトアップで更に魅力度が増す。
増す。ライトアップは10月下旬から11月の初旬にかけてなのでまだまだ先だが、また出かけるのが楽しみだ。近くに磊々峡もあるので、1日居ても飽きないだろう。

秋の味覚も楽しみの一つ。しかし栗や松茸シャインマスカットなど、何故かお高いものが多い。贅沢品とわかってはいるが、シャインマスカットは大好物なのだ。既に生協の宅配にてひと房購入し、ここ最近少しずつ食べている。口に残らない程の皮の薄さと、種が無いところも魅力だが、なんと言っても、果肉をかじった時に口の中に広がる、みずみずしく強すぎない甘い香りのジュース!シャインマスカットは確実に葡萄の王様だと思う瞬間だ。私の収入ではかなりの贅沢品なので、こういうものは季節に1回か、多くても2回だけど決めている。栗も好きなのだが、モンブランが安くて美味しいケーキ屋さんを知っているので、そこのをシーズン中に1回は食べたいと思っている。

ここまで秋のいい所を書き連ねてきたが、いい時というものは長くは続かないのが世の常。特に私の住む東北は秋がとても短く、あっという間に冬が来る。しかも長い。
今年こそはなるべく暖房費がかからない生活スタイルをみつけて、その季節季節の「花鳥風月」を心底楽しめるようになりたい。

社会派ドラマになった「赤毛のアン」


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少女時代にものすごく影響を受けた物語がある。それは「赤毛のアン」だ。
子供の頃の日曜夜7時30分と言えば、「カルピス世界名作劇場」だった。私はそこで放送された「赤毛のアン」にどハマりした。
アンの頭の中(想像の世界)やアボンリーを、日アニが素晴らしいアニメーション力で表現してくれたことが最大の理由に他ならない。あの番組を見ていなかったらそこまでハマることは無かっただろう。

つまり、子供の私はストーリー<ディールに惹かれたわけだ。日アニが描いたプリンスエドワード島の美しい風景の数々、そしてグリーンゲイブルズにめちゃくちゃ憧れた!孤児で10歳まで酷い扱いを受けてきたアンの生い立ちのことなどすっ飛ぶくらい、グリーンゲイブルズで暮らせる、アンの人生が羨ましいとすら思えた。

そしてアンがカスバート家の家族になったのと同じくらいの年齢で、原作本を読んだ。アニメでは描ききれなかったストーリーをここで味わい、キャラクターも含めて、更に赤毛のアンが好きになった。
以来、アニメの再放送がある時は見逃さなかったし、映画やドラマになったものも全て見尽くしてきた。

そして去年、BSプレミアムの深夜に「アンという名の少女」というTVドラマの放映が始まったことを知った。
制作はCBC(カナダ放送協会)なのだが、
原作をオマージュしながらも、大人向けのリアリティのあるストーリーだ。
原作には無い、マシューと、マリラの若かりし頃の恋の思い出や、カスバート家の家計が傾くと、アンは質屋に行き、あることないことストーリーを付けて、集めた品々をお金に替えるというシーンがあったり、生々しいエピソードも多々描かれている。また、アンは男の子と間違われてグリーンゲイブルズに来た経緯があり、要らなくなったら孤児院に返されるのでは無いか?という恐怖から、農作業の手伝いに雇われたジェリーに辛く当たるところも出てくる。私はこれはこれで、キャラクターの輪郭や心情が分かりやすく伝わり、見応えのある作品だなと思った。
更に子供時代には気づけなかった、アンが孤児として過ごした劣悪な環境、虐待やいじめ等のトラウマ、それに屈せず素直で愛情深い少女に育った心の強さに感心した。そのような過酷な幼少期を経た故に、凡庸なアボンリーの人々になかなか馴染めず、浮いてしまう悲しさに胸を締め付けられた。

特筆するところはマリラの母性の描き方だ。原作や、アニメよりもアンを愛する気持ちがふんだんに描かれている。
マリラもマシューもアンの不憫だった子供時代を理解し、丸ごと受け入れてくれている感じが私は好きだ。

が、原作ファンの人の中には「原作への冒涜」だとか、原作者のモンゴメリーがこれを見たら悲しむ等々…酷評している人もいる。色んな見方が有るだろうし、好き嫌いはあって当然だが、余りにも「原作と同じ」を期待していた人が多いことに、正直驚いている。(中には罵倒するような感想まで!)

私が思うに、このドラマはスピンオフを兼ねた、「社会派赤毛のアン」なのではないだろうか?
単にカナダの美しい島で育った少女のお話しではなく、血縁では無い家族や、友達、村人との絆を築き、たくましく生きた女性でもあったことを描きたかったのではと想像する。

実は今、去年放送されたシーズン1の再放送が始まっており、その後の9月半ばからシーズン2が放送される。更にストーリーは原作から離れていくのだそうだが、私は楽しみだ。
また、ドラマで描かれたキャラクターを思い浮かべながら原作をもう一度読み直してみるのも一興と思う。
1年のうちで最も好きな季節に、また1つ楽しみが増えた幸せを噛み締めている。